江戸時代、文武両道を旨としていた藩校が「文」として教えていたのは、四書五経の素読と習字である。ところが、四書五経というのはそもそもが
優れた王たるもの、かくあるべし
というリーダーシップ論とそのための背景知識を説明した本だ。それを読み、意味を教えられる先生と言うのは当然、相応の Leadership論と知識の実践に関する一定の意見を持っていた(もちろん、江戸幕府が朱子学という枠を用意していたので、独自性や多様性には一定の枠がはまっていたとは思うが)。つまりこの当時は、
Leadershipとはなんであるか
を教えられる人の事を先生と呼んでいたのだ
Leadershipとはなんであるか
を教えられる人の事を先生と呼んでいたのだ
この定義上、当然この頃の先生は Leadership を教える事ができたのだ。
明治時代になっても、この先生と Leadership との繋がりは多くの人のイメージにこびりついていたため、この頃までは「指導者として」優れた教師もまだ多かったと思う。
しかし、今の教師の中に 四書五経を読みこなしている者など皆無だろう。
学級崩壊に見られるように、40人程度の子供を導くのも容易ではない有様だ。もちろん、これは親が子供に教師を敬うよう教えないのも原因の一つだろうが、もう一つには Leadership を得るための準備・細かい繰り返しのコンタクトなどに欠けるためでもある。
しかし、さらに言うならば教師になるための教育の中に Leadership に関するものはほとんど無い。どちらかと言うとこれをメインにするべきなぐらいなのに、彼らの職場ではたった一人で40人の子供の相手をし続け、ほとんど指導者が即時指導する、などの OJT もままならない。
じゃぁ、Leadership を教育した教師を育てたらどうなるか。文部省から教育委員会、学校内のヒエラルキーという巨大なピラミッドの底辺部分に当たる教師を Leadership 豊かにしたら、ピラミッドはひっくり返ってしまう。もう一つのピラミッド、日教組など法的な強制力が無いのだから言わずもがなだ。よって、教師は
- なりたての頃は Leadership について何も知らず
- なってからも Leadership について何も教わらず
- Leadership のあるものは排斥される組織構造
このように、Leadership に関する限り、学校はまったく持ってあてにならない。それは個々の教師の問題ではなく、教育システムが技術者を大量育成する事に最適化されているからだ。この状態では、Leader を大量生産する教育システムなど絶対に作れない。
江戸時代が終わり、教育システムが変化してもしばらくの間優れた Leadership 教育者が出た事からも判るように、Leadership 教育ができない今のシステムも「今日、この場で」改善を開始したとしても入れ替わるのに40年はかかるだろう。しかるに日本には20年しか執行猶予は無い。
我々は学校・政府に頼っていたのでは間に合わない、という事態に陥っているのだ。
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